2021-07-15 21:00

青木慶則 x 乙川ともこ レーベル内 対談!対照的な生い立ち、でもどこか似ているふたり | 特別寄稿

左から、青木慶則さん、乙川ともこさん(レコーディング風景)

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シンガーソングライター・青木慶則(ex.HARCO)が、自身の運営するレーベル「Symphony Blue Label」からセカンドアルバム「Flying Hospital」を2021年2月24日にリリース(オフィシャルストアなどではこの2ヶ月前に先行発売)。

 
さらに同日に同じレーベルから、シンガーソングライター・乙川ともこが、青木氏のプロデュースのもと、ファーストアルバム「元気で過ごしてますか?」をリリース。

 
それらの発売からすでに半年ほどが経過していますが、このたび7月18日(日)に東京・下北沢LOFTにて、乙川ともこのレコ発ワンマンライブを開催!そこでも青木氏が全面参加ということで、これを記念してUROROS誌上で対談を行っていただくことになりました。

 
なんと今回は、その青木氏にライターとして、対談の仕切りから原稿作成までを担当していただいてます。しかも乙川氏がテープ起こしをしたというから、どこまでも二人三脚! ふたりそれぞれの生い立ちから今に至るまでが、じっくり手に取れますよ。

 

記事・構成:青木慶則(Symphony Blue Label)
デザイン:SKG
構成補助:UROROS

 
 

青木慶則(以下、青木) 僕のレーベルオーナーとしての努力不足ではあるんだけど、オトちゃん(乙川ともこ)のインタビューっていうのは、他でもまだなかなか読めないと思うので、あらためて知らない人のためにざっくりと生い立ちなどから聞いてみたいなと。出身地はずばり?

 
乙川ともこ(以下、乙川) 新潟県の新潟市なんですけど、亀田製菓の本社がある旧亀田町の地域ですね。そこが出身地です。生まれてから新潟を出るまでずっと亀田で暮らしていました。

 
青木 亀田ってどの辺かな? 新潟市というからには、海は近いの? 自転車でどのくらいとか。

 
乙川 海はそんなに近くなくて、わりと田園地帯ですね。自転車だと、私のスピードで1時間以上かかるかもしれないです。

 
青木 ああ、あそこはてっきり海が近いのかと。僕も一度、ツアーでオトちゃんに同行してもらった際に亀田に立ち寄らせてもらったけど、新潟市といっても広いもんね。どんな子供時代だったんでしょう?

 
乙川 わりとひょうきんな子供で。結構ふざけて、友達の前で替え歌を歌ったりしていましたね。テレビの音楽番組を見て、一緒に歌ったりするのも小さい頃から好きでしたし。かといえば、一人で黙々と逆上がりを練習しているような時間も多かったり。好きなことにはとことんのめり込むタイプだったかもしれないです。

 
青木 それはいいこと。ミュージシャンにも多いはずだし。

 
乙川 小学校の音楽の時間で「気球に乗ってどこまでも」という曲を歌ったとき、「高音が綺麗に出せてるね」と先生に褒められて、大袈裟だったかもしれないんですが、「音楽の道に進んだほうがいい」と言われたことがあったんですよ。それがすごく記憶に残っていて。今も励みになってるんです。

 
青木 オトちゃんはキーが、一般の女性に比べてものすごく高いんだよね。しかもレコーディングのとき、かなり高域のところを歌った場合、普通は声が少し細くなるのに、逆に伸び伸びとして綺麗に響くことが多くて、不思議だなぁなんて感じてた。その先生は正しかったね。そうそう、そういえば兄弟が多かったよね。

 
乙川 はい、そうですね。3人姉妹の真ん中で。3人とも幼少期から音楽教室に入れてもらったんですけど、その中で続いたのが私だけで。中学2年くらいまでピアノをやってました。

 


乙川ともこさん

 

青木 始めたのはいつくらいから?

 
乙川 音楽教室に通い始めたのは小学校に上がる前からなんで。けっこう長いですね。

 
青木 へえ、そっか。ずっとピアノだとすると、ソルフェージュとかバイエルから始まってソナチネとか。

 
乙川 バイエル終了したあと、そんなに進んでないですね…。ピアノもやっていたんですけど、小学校高学年から「スラムダンク」の影響を受けてバスケットボールクラブに入りまして。そこで何度か怪我をしたりして。そのときは片手で練習したり、お休みしたり。 

 
青木 突き指したりとか?

 
乙川 そうなんです、中学でもバスケを続けて、すっかり部活が優先になって、ピアノは好きだったんですけど、続かなくなって志半ばなところで、やめてしまいました。

 
青木 高校もバスケ?

 
乙川 いえ。そのときは最初にダンス部に入って、でもちょっと違うなと思って。

 
青木 あはは(笑)。

 
乙川 体育祭でダンスを踊ってそこでやめて。そのあとずっと帰宅部だったんですけど、高2くらいから調理同好会に友達と入って、そこで部長をやって。そのとき出場したふるさと料理コンテストで優勝したんですよ。県内の高校で集まって。でも先生と相談しながら新潟の素材を使ってメニューを決めて作ったので、みんなで勝ち取った賞でもあるんですけど。

 
青木 初めて聞いたなぁ。話を戻すと、小さい頃から音楽教室に通っていたし、替え歌もよくやってたくらいなら、歌自体は好きだったんだよね?

 
乙川 そうですね。家では「ごはんだよ」って呼ばれるまでずっと歌っていたりとかして。食べるのは今もすごく好きなんですけど(笑)、それを上回るくらい、歌っているのがとにかく楽しくて。

 
青木 昔からピアノを弾きながら歌うみたいな。

 
乙川 それはだいぶ遅くて、とにかく歌番組を見たり、CDのカラオケに合わせて歌って録音するのをよくやっていました。オーディオデッキにマイクをつないでMDとかに歌を録音して。

 
青木 客観的にその頃から、録音した自分の声を聴いていたのかぁ。

 
乙川 中学の頃は、MDに録って親友に「聴いてよ」って、よくあげてました。

高校1年の頃は、本格的に歌手になりたいと思い始めて、東京まで行って、芸能事務所のオーディションを受けたことがあるんです。そのときは落ちちゃったんですけど、仙台にあるその事務所の養成所で、ボイストレーニングを月1で受けることになって、アルバイトをしながら高速バスで日帰りで通ってたんですよ。

 
青木 良い話。頑張ってたんだね。

 
乙川 でも学校の成績が落ちてしまったり、高速バスの遅延でレッスンに間に合わず、何もせず帰ってきたことなどで、すっかり心が折れてしまって…。1年経たずに、辞めてしまいました。

今考えると、地元の新潟の方でボイトレを受け続けていたら良かったかなって。その頃は「デビュー=東京の事務所」という思考だったのかも。あ、同じく高1で、「モーニング娘。」のオーディションに書類を送ったことも。

 
青木 その頃がいちばん、上昇志向というか、そういう気持ちが高まったときなんだね。でもときおりエンジンをフルスロットルすることって、大事。それが今につながってるんだから。

 
乙川 そうですよね!(両手で小さくガッツボーズ)

 


青木慶則さん

 

青木 それでバスケや料理にハマった中高時代を経て、大学に入るんだよね。そのときに初めて新潟を出る、と。

 
乙川 そうですね、はい。長野県の大学に通ってました。そこで軽音楽部に入って、生バンドをバックに歌うっていうのを初めて経験しました。

 
青木 そっかそっか。じゃあ、ボーカルってこと? 鍵盤をやっていたと聞いたことがあるような。

 
乙川 ボーカルですね。全然、楽器は弾かなかったです。在籍していた最後の方で、先輩からもらったギターで学園祭にも出たんですが、弾けているとはまったくいえないような状態で(笑)。

 
青木 軽音楽部に入ったときに「あなたは何やりたいの?」って言われたと思うけど、「ボーカル」って言ったんだ。結構勇気いるよね。争奪戦とかになったり?

 
乙川 そんなことはまったくなくて、むしろ多いときで、仲良しバンドみたいな感じで3〜4個くらいバンドを掛け持ちしていたときもあったんですけれども。

 
青木 すごいじゃん。

 
乙川 レッチリとかコールドプレイとかドリカムとか、なんでも歌ってましたね。男性キーの曲も、そのまま変えずに歌っていた気がします。

 
青木 難易度高いのばっかり…。洋楽の男性はキーが高いけど、女性にしてはキーの高いオトちゃんに、まわりまわってちょうど良かったのかも。

 
乙川 で、最終的には、方向性の違いとか、いろいろあって2つのバンドになって。カバーバンドと、私が曲を作る「オリジナルを少しやる」バンドに。

 
青木 その辺りから作ってたんだ。歌詞はみんなで書いたり?

 
乙川 詞も私が書きました。あ、でもキーボードの子も1曲作ってくれたり。それで、カバーとオリジナルを混ぜて、学園祭に出たりしてました。

 
青木 そうかそうか。ほら、今年の1月の吉祥寺のStar Pine’s Cafeで生バンドをバックにハンドマイクで歌ったよね。あれがバンドで歌うのは初めてと聞いていたけど、そうではなかったんだね。

 
乙川 でも「ライブハウスで、バンドで」っていうのは、歌ったことがなくて。学園祭のときも、どうしてもベースが集まらなくて。オリジナル曲を歌った方のバンドでは、キーボードとドラムと歌だけの編成で歌ってました。

 
青木 キーボードとドラム。すごい。ある意味オルタナティブ!

 
乙川 そうなんです。あとは私が弾けないギターをちょっとだけ弾いたり…。

いきなり私の話をたくさんしちゃいましたが、あらためて青木さんの、音楽を始めたきっかけなどを教えていただきたいな、と。

 
青木 僕は、母親がピアノ教室の教師で、ちょうど5歳の誕生日のときにピアノを始めたというか、始めさせたみたいで。そこから中学の1年まではピアノをやっていて。ピアノのコンクールにも何度か出たりとか。あと勉強も好きで、きっとまわりから見るといかにもな優等生というか、万年学級委員タイプだったなぁ。

 
乙川 おお〜。

 
青木 それで中学に入ると、部活、ハンドボール部が忙しくなって、同時に中2で、のちのBLUE BOYになるバンドを結成して、ロックにものめり込み…。それで「クラシックなんて嫌いだ!」って母親と喧嘩をしたりしてね。そこから一旦ピアノはやめちゃって。バンドは「キーボーディスト」として最初始めるんだけど、ドラムがやってみたくなって、そっちに転向して。

 
乙川 そうだったんですね。

 
青木 高校に入ったら、BLUE BOYを続けつつも、高校は高校で軽音楽部に入って、そこでやっぱりオトちゃんと一緒なんだけど、バンドをいくつも掛け持ちしたりして。そこでは洋楽のコピーばっかりやっていたかな。

軽音部では副部長だったんだけど、部長が高2の時点から受験勉強に忙しくなっちゃって。代わりに高校の文化祭で、武道館っていう柔道とか剣道をやる場所を「ライブ in 武道館!」っていう風に、プロの興行の真似をしつつ仕切らせてもらったのは楽しかったな。先輩のも含めたバンドのオーディションをして、足りない機材を部費で揃えて、照明やPAの業者も呼んであれこれやり取りしたりとか。

でもBLUE BOYだけは、高1から必ず週に3回は練習して、実際のライブハウスでもコンスタントにライブを続けて。それで「ホコ天」ていうね、原宿の、今はなくなっちゃったけど、そこに毎週日曜、欠かさず出るようになって、さらにNHKが主催するコンテストの全国大会に2年連続で進んだりなんかして。

 
乙川 すごい!

 
青木 それでNHKホールでライブをしたときに、300人くらいかなぁ、たくさんファンの子が来てくれて、なんでこんな若い奴らが人気なんだっていろんなレコード会社が目を付けてくれて。で、高校3年のときにメジャーデビュー、という。

 

 

乙川 当時、有名な高校生バンドって、他にもいたんですか?

 
青木 コンテストの決勝では「the PeteBest」っていうバンドがいて、彼らもメジャーデビューしていたよ。あと「風来坊」っていうバンドは、最近もたまに会うようになったり。そうそう、忘れてならないのが、堂島孝平くん。

 
乙川 そうなんですね。

 
青木 堂島くんは正確にいうと、高校生じゃなくて19歳くらいでデビューしたんだけど。やっぱり10代で同い年でやっている人って少なかったんで、当時から仲良かったな。

足早に喋っちゃたけど、本当にいろいろと運が良かったとも思う。

 
乙川 コンテストとか私はあんまり出たことないし。昔ちょっと応募したことはあるんですけど。書類落ちで。当時、高校生でデビューしたころはお給料制だったんですか?

 
青木 そうだね、デビューしたときは事務所とレコード会社が一緒。レコード会社の中に事務所があるという感じで、そこから。

 
乙川 高校卒業したらみんな音楽1本でやるぞって?

 
青木 そうだね。僕とギタリスト(伊藤良太)は大学も考えてたけど、思い切って行くのはやめちゃって。そこはいろいろ、とくに親を説得するのが大変だったけど…。とにかく濃い10代でした。

一旦オトちゃんの話に戻そうかな。

オトちゃんが大学に行っていた年齢のときは、僕はちょうどデビューして音楽業界にいて、しかもオトちゃんが卒業する22歳くらいのときは、BLUE BOYを解散して、ソロのHARCOを始めていたという。すでにひとつのキャリアが終わろうとしている時期で。

 
乙川 早いですね~。

 
青木 まぁオトちゃんと僕は、年代的にも10年以上差があるから、時代背景は違うわけだけど。そちらは卒業後、上京をするんだよね。

 
乙川 そうですね。上京したきっかけとしては、当初は就職しようと思っていたんですけど、最終面接までいった企業に落ちて、心が折れたのがまずあって。

あと、大学の軽音楽のサークルで、私よりすごく上手な人たちが次々と音楽をやめる道を選んでいるのを見ながら思ったのが、「私はほかの人と比べて下手な方だけど、続けていれば何かにつながるんじゃないか、好きなことだからやりたい」と思って。

 
青木 おー。「好きこそものの上手なれ」っていう道もあるしね。

 
乙川 でも、そこまで言いながら、音楽ではやっていけないんじゃないかと思ったのと、違う表現の世界もやってみたくて、上京してすぐは声優の養成所に2年通って、演劇の勉強を少ししてたんです。

1年目は演技とダンスとボイトレのコースに通って。2年目はお金の関係もあって演技だけのコースで。養成所のボイストレーナーがすごく厳しかったんですけど、オリジナルの曲を聞いてもらったら「いい曲だね」って言ってもらえたのが嬉しくて、やっぱり自分でライブをやりたいって思って。

 
青木 お、音楽に戻ってきた。

 
乙川 でも実は養成所を出てからも、東京の国立市の街劇団「えんがわカンパニー」というところで、少しのあいだ活動をしてたんですよ。懐かしいです。

 
青木 未練はまだ残っていたと。

 
乙川 (笑)。音楽の方は、弾き語りという選択じゃなくて、バンドをやろうと思って、インターネットの掲示板でバンドメンバーを募集して。実際にやり取りした方もいたんですけど、会う前から方向性が合わないってなって、うまくいかなくて。

 
青木 もっといろんな人と交流しなかったの? 方向性が合う人が見つかるまで探すとか。

 
乙川 そこまでいかなかったんです。早い段階で心が折れてしまって。

 
青木 折れること多いな(笑)。

 
乙川 ちょっとバンド活動は難しいなと思ったときに、YouTubeで弾き語りの動画をたまたま見かけて、「ひとりでもライブができるかもしれない」と思って。そこから動画に夢中になってよく見るようになって。矢野顕子さんみたいな有名な方から、小さいライブハウスで歌っているようなインディーズアーティストまで。それでライブをするなら下北沢がいいなと思って、出られそうなところを探したら下北沢のLOFTに出会って、そこからそこを中心に弾き語りでライブをするようになりました。

 
青木 養成所の話もそうだけど、とにかくオトちゃん的には、常に人前に出ることを念頭に行動している感じだね。

 
乙川 表現することというか。

 
青木 うん、そうだよね。そのなかで演技とかもあったけど、やっぱり音楽というかね。そこに戻ってくるんだ。

 
乙川 養成所に通っているあいだも曲を作ったりとかしてたんで。周りの目を気にせずやってみようと思って。

 
青木 たしかタレントみたいなの、新潟でしてたんだっけ?

 
乙川 タレント活動は全然してないですよ(笑)。それに近い話で言えば、5〜6年前、新潟に帰ったときに路上ライブをしたら声をかけてくれた人がいて。新潟では有名な事務所とつながっている人で、紹介もしてくれたのですごくチャンスだったんですけど、色々と考えてお断りしてしまいました。

 
青木 路上ライブしてたの、全然知らなかった。東京ではしたことないの?

 
乙川 あります。本当に数える程度なんですけど、東京はやっぱり下北沢とか、千葉の松戸とかでもやったことありますねぇ。生声で。鍵盤は電池で鳴らせるスピーカー付きのものを持っていって。

 
青木 生声だとそんな遠くまでは届かない?

 
乙川 そうですね。わりと近くでないと聞こえないです。一度、山手線の「田端」でやりますと告知したのに、間違えて対角線上で反対の「田町」に向かってしまって。それで急いで田端に向かったら、ずっと応援してくれているファンの方が待っていてくれたのは嬉しかったです。

 
青木 いい話。それにしても興味深い話ばかりだな、聞いてみると。

 
乙川 けっこう緊張しいだし、なかなか前に踏み出せないこところもあるんですけど、やるぞって思ったら飛び込んでみるところもありますね。

 
青木 でもね、こういう人前に出る仕事の人って、ほとんどが考えるより先に始めちゃうタイプなんで。僕だって、色んな局面で「あの時もうちょっと冷静に考えてたら、やんなかっただろうな」ってことばっかりだから(笑)。気が付いたときには始めていて、後で帳尻を合わせてくみたいな。

その後、上京してから10年くらいの月日が流れるんだっけ。

 
乙川 そうですね。下北沢LOFTには定期的に出演しつつ、働いてもいるという。チケットをもぎったり、ドリンクを作ったり。なにより、生のアコースティックライブを見る機会がけっこうあって。

 
青木 見ることはとにかく大事。僕も、今でこそあまり行かなくなっちゃったけど、昔は1週間連続で下北沢のCLUB Queにいるときもあったし。ライブを見るだけで、リハをしてるくらい力が付くからね、本当にね。

 
乙川 たしかにすごく勉強になって。そこから弾き語りのアコースティックにどんどんのめりこんでいきましたね。

 
青木 ライブって、今はYouTubeでも結構見れるけどね。でもすぐそばで見られるのは幸せ。もちろんお金を払えば、もっとね。

 
乙川 青木さんの、10代よりも先のお話ももっと聞きたいです。

 
青木 えっとどこまで話したかな。1998年にバンドが解散して、その少し前の1997年、21〜2歳の頃にHARCOでソロになって。2000年にそのソロでもう1回運良くメジャーデビューできたんだけど。24歳か。

で、20代でデビューする人って多いから、その時にあらためて同期になった人っていうのが、やっぱり今の良質な音楽シーンを作っている人たちが多くて。KIRINJI、クラムボン、くるり、キセル、ゲントウキ 、GOMES THE HITMAN、キンモクセイ、、、。ここまで全部「カ行」でしょ?

 
乙川 ほんとですね、すごい。たまたまですかね。

 
青木 カ行じゃない良いアーティストももちろんいたけど(笑)、バンドでデビューした頃は堂島くんとかしかいなかったから、2回目のデビューのときに、同じような志を持った、よりたくさんの人たちとまた出会えたのが、良かったなと。

 
乙川 いやあ、今の音楽シーンを支えている方ばかりですね。

 

 

青木 で、同時にCMソングの仕事を少しずつするようになって。そこから今に至るまでの約20年は、半分はおもにCM関係と、たまに映画や演劇の音楽制作もやりながら、アーティストとしてCD出してライブしてっていうのを、ずっと変わらずに続けているかな。そういった仕事があるおかげで、アーティストでいられるっていうのもあって。

とにかくずっと、いろんなタイプのアルバムを出してきたんだよね。HARCO時代の初期はどちらかというとエキセントリックな方向で、「宅録」的な、自分で音を重ねていって箱庭的な音楽をちまちま作るみたいなものが多かった。でも2018年で本名になるまでの後半10年は、どちらかというとシンガーソングライター然とした、中庸的なスタイルも自分の肌に合っいている気がしてきて。コラボもたくさんやってきたし。

 
乙川 青木さんって、HARCOさん時代から色んな方とコラボをしていたと思うんですが。よければ、きっかけなどを聞きたいです!

 
青木 コラボの原点は、レコーディングというよりは、やっぱりライブになるのかな。HARCOを始めたすぐのときに、いざインディーズレーベルからHARCOとしてリリースしても、ライブのオファーがまったくなくて。ムーグとかオープンリールとかでちまちま変なことばかりやってたんだけど、とにかくひとりきりで作ってたから、可愛がってもらっていたロックンロールな先輩はたくさんいたけど、そういう路線の友達が全然いなくって。

それでさっきも行ったように、下北沢に毎日のように、知らないアーティストも含めてたくさんライブを見に行って。でもギターバンドばかりで、それはそれで悪くはないんだけど。そのなかで、POLYSICS、MOTOCOMPO、SPOOZYSといったバンドたちが、「ニューウェイブ・オブ・ニューウェイブ」っていうシーンを作り上げていて。みんなシンセサイザー主体で。その人たちに、自分から仲良くなってほしいなと思って、必死にアプローチして、そのことが自主イベントにつながったりして。

そこが本当の原点かなぁ。とくにSPOOZYSの松江潤くんっていう、YUKIちゃんのライブでギター弾いたりしている人は、今も大尊敬しているし、本当にお世話になって。

 
乙川 これからコラボしてみたい方とかいますか? 歌い手に関わらず、楽器演奏の方々とか。それかまたイベントとか。

 
青木 本当は20組くらい集めた配信フェスをやりたい! ってずっと思ってる。 でも今はスタッフがいなくて、ほとんど自分で切り盛りしているので、本名になって3年半経つけど、常に時間の余裕がなくて。だからなかなか難しいかな。コラボをメインにしたアルバムを、次かその次あたりに出したいとは思っているよ。

いやいや、つい盛り上がって、お互いの生い立ちだけでかなりの時間、使っちゃったね(笑)。肝心の僕らの出会いの話をしてなかったんで、最後にそのあたりの話をしましょうか。そんなに前じゃなくて、2019年の4月だよね。

 
乙川 代々木公園で開催されていた「Earth Day Tokyo」で、青木さんとQuinka(キンカ・青木の妻)さんが一緒にライブをやっているところに、たまたま通りかかって。代々木公園って野外ライブが多くて、やっているときはなるべく見るようにしているんですけど。

まず雰囲気がいいなと思ったのもあるんですけど、その日は曲がちょうど、CMソングの「世界でいちばん頑張ってる君に」とか、NHK Eテレの歌の「きょうの選択」とか。すごく素敵だなと思って。前者の方は元々知っていたんですけど、お顔を拝見したのも初めてで。もっと色んな曲を聴いてみたいと思って、帰ってからいろいろ聴いて。そのなかでも「Night Hike」とか「winter sports rainbow」、あと「カメラは嘘をつかない」が、自分のなかで静かに熱く燃えあがるような感じで、かなり刺激されて。

 
青木 おお。「カメラ…」がとくに良いと思ってくれたのは嬉しい。さらにその3曲で反応してくれたのも、いいとこ突いてますな。

 


HARCO(青木慶則)- カメラは嘘をつかない

 

 
乙川 あとは、私も弾き語りをやっているので、青木慶則さんとしての、全編弾き語りのファーストアルバムを聴いて、ますます素敵だなと思って。で、その頃ちょうど私が1ヶ月後くらいにワンマンライブを控えていたので、プロデュースか編曲だけでもお願いしたいなと思って、ホームページからメールを送りました。

 
青木 たまたま僕も、自分のサイトにそういう窓口を作ったばかりだったんで、ちょうど良かったというか。で、最初は2〜3曲くらいでもいいかな、って思ってたんだよね。

 
乙川 そうですね。いきなりフルアルバムをお願いするってのもなんか恐縮だったんで。発売の時期とか、レーベルのこととか、何も考えないで。

 
青木 そうそう、僕が聞いたんだよね。「プロデュースをするのはいいけど、レーベルは決まってるの?」って聞いたら、「何も考えてないです」って。

 
乙川 そう、それを聞かれてハッとしました。

 
青木 で、僕は、自分のレーベルは自分のリリースだけのつもりだったけど、これをきっかけに他のアーティストを出してみようかなって。それで1回ライブを観に行かせてもらって。そのワンマンをね。

 
乙川 そうですね。まさか本当に来ていただけるとは思わなくて。緊張しました。

 
青木 その場で良い曲と思ったものをこっそりメモったりしていたけど、なによりお客さんに愛されている感じが伝わってきたのと、性格がとてもいい子だなと思って。

 
乙川 ああ、嬉しいですね。

 
青木 音楽以外の部分が、音楽に表れるように協力してあげられないかなと思って、受けることにしたんだよね。その代わり、詞と曲に手を加えてもいいかとか、レーベルでは初の他アーティストということで、いろんな試みを含んだ作品にもしたいって、かなりワガママを言ったんだよね。

 
乙川 いやいや、そんなことないです。

 
青木 そこからプリプロダクションとレコーディングで、1年以上かけて、我が家に何度も通ってもらって。いやぁ、それにしても、この先もずっといろんな人に聴いてもらいたい、本当に良いアルバムができました。うんうん。

 


乙川ともこ – 散歩しよう(Short Ver.)

 

青木 それと僕も、本名名義のセカンドアルバムを、オトちゃんのアルバムと並行して作ってて。オトちゃんのアルバムはゆっくりじっくり作った感じだけど、僕の方はそれよりは短期間で集中して、そのぶんかなりの熱量を封じ込めたイメージ。

 
乙川 瞬間冷凍みたいな、でしょうか。ご自分のアルバムの曲、DEMOが出来た順から送ってくださって。

 
青木 そうそう、思い出した! オトちゃんがディレクター役になってくれたんだ。曲の感想を送ってくれて。ああ、そのことをCDのクレジットに書くの忘れてました、ごめんなさい。

 
乙川 いえいえ! 感想になってなかったかもしれないですけど。シティな感じのものからバラードまで、色々なタイプの曲があって。たしかに熱量も、すでにだいぶ感じてました。

 
青木 いやあ、嬉しかった嬉しかった。出来た順にどんどん送って、感想をもらってたんだよね。当時のメール、、、これだこれだ。

「『分水嶺』、青木さんの中でアレンジはお考えかもしれませんが、もし『Wonder Wonder』のようなAOR調の曲が他にも多かったら、弾き語りもしくはそれに近いアレンジにしたら、振り幅もあっていいんじゃないですか」って書いてくれて。結果的に「分水嶺」は、どの曲よりもいちばんアコースティックなアレンジになっているもんね。

 
乙川 ああ、そうなんですね。私が最初に聴いちゃっていいのかなっていう想いはありましたけど、あのデモがこんな風になったんだっていう感動はありましたね。完成したものを聴いて。

 
青木 僕は昔から、レコード会社にディレクターやA&Rがいて、その人などに意見をもらって、何度も作り直したり違う曲を作ったりっていうのを、ずっと続けてきたから。BLUE BOYのときもHARCOのときも。

 
乙川 (1曲目でアルバムタイトルでもある)「Flying Hospital」は、曲自体、アルバムが完成してから初めて聴いたんですけど、安田寿之さん(プログラミング)や石本大介さん(ギター)のアレンジもすごくいいですね。もちろん、他の曲もすごく好きです。

 


青木慶則 – Flying Hospital

 

 
青木 ありがとう! 自分で言うのもなんだけど、毎回どこにもないような、少し変わったアルバムを作ってしまう自分がいて。時代性は関係なく、それが「新しい何か」だということも、自分では思っているんだけど。とにかく今回もそれは出来たのかなと思ってる。

 
乙川 今後も、青木さんのSymphony Blue Labelでやってみたいこととか、未来について考えてることとか、あるんですか?

 
青木 オトちゃんのアルバムは本当に大成功だと思うんだけど、それと同時に、やっぱり納得いくものを作るにはすごく時間がかかるなということが分かったので。今後は、わりとアーティスト側の自主性に任せるとか、関わるとしたらそういう形がいいなと今は思っていて。

あとは出すところがなくて困っている人の助けにはなりたいかな。例えば僕のレーベルから出さなくても、こういうやり方をすれば自分でも出せるよとか。それをすでに何人かのミュージシャンに伝えたりはしてるんだけど、培ってきたノウハウを伝えていけるだけで、僕は満足なんで。

 
乙川 ありがとうございます。すごくいいお話が聞けました。

 

 

注目記事

青木慶則(ex.HARCO)、本名名義初シングル『セブンティ・ステイションズ』とライブ盤『Residents at Star Pine’s Cafe』同時リリース

 



 
乙川ともこ ワンマンライブ 開催!
「ホームパーティー 2021 Summer – 乙川ともこ 1stアルバム レコ発ワンマン-」

 
日程:2021年7月18日(日)
会場:下北沢LOFT
時間:開場 17:00 / 開演 17:30
料金:前売 3,000円 / 当日 3,500円(+1drink)
サポート&ゲスト:青木慶則(ex-HARCO)
※20名様限定

 
[前売りチケット予約]
https://tiget.net/events/132395
※当日会場お支払い

 
 

 
青木慶則『Flying Hospital』

発売:2020年12月25日(一般発売は2021年2月24日)
価格:3,300円(税込)

品番:SYBL-0005

発売元:Symphony Blue Label

販売元:ディスクユニオン

Amazonでみる
TOWER RECORDS ONLINEでみる

収録曲:
01. Flying Hospital

02. In Tempo, On Time

03. 冬の大六角形(Remastered 2020)

04. Hazel Eyes

05. Broken Signals

06. 秋を待たずに

07. Wonder Wonder

08. 分水嶺

09. インドアプレーン

10. 水のなかの手紙

 
HARCOから青木慶則に改名し、これがセカンドフルアルバム。前作のEP「冬の大六角形」の延長線上にあるものとして、エレクトロニックミュージックによるポップスを念頭に制作。HARCO初期を彷彿とさせるようなエキセントリックなサウンドも見え隠れし、本名名義4年目にして、あらたな軌道を乗り始めた、真の再出発地点ともいえる一作に。電子音楽家/作曲家の安田寿之、歌人・伊波真人(2曲の作詞)、HARCO時代から青木を支え続けるギタリスト石本大介などが参加。ジャケットのアートワークは、ニューヨーク在住のアーティスト・菊地麻衣子が担当

 
 

 
乙川ともこ『元気で過ごしてますか?』

発売:2020年12月25日 (一般発売は2021年2月24日)

価格:2,700円(税込)

品番:SYBL-0004

発売元:Symphony Blue Label

販売元:ディスクユニオン

Amazonでみる
TOWER RECORDS ONLINEでみる

収録曲:
01. ブロッコリー

02. 元気で過ごしてますか?

03. ほんものの愛

04. もうひとつの星

05. 散歩しよう

06. パパとママのふるさと

07. 青星花 – Blue Star

08. Swim Swim

09. 砂時計

10. 白身魚のおいしさに気付いた

 
新潟県出身のシンガーソングライター・乙川ともこのファーストアルバム。彼女の明るいキャラクターを象徴するような愛嬌のある歌声と、飛び抜けてポップな作曲センス。全面プロデュースを担当した青木による2曲の書き下ろしや、両者の共作も加わり、バンドサウンド、エレクトロニックミュージック、トイポップ要素が絶妙なバランスで溶け合う、まるでファーストとは思えない完璧とも言えるポップアルバムに仕上がっている。ジャケットイラストは、人気イラストレーター/アニメーター/映像作家の北村みなみ氏によるもの。

 



 
青木慶則

あおきよしのり。幼少期にピアノを、10代でドラムを始め、1993年に17歳でバンド BLUE BOY のドラマーとしてメジャーデビュー。1998年に解散。1997年から2017年までの約20年間は、HARCO(ハルコ)名義でシンガーソングライターとして活動し、2018年から本名の青木慶則として再始動。レーベル「Symphony Blue Label」を立ち上げ、アルバム「青木慶則」「Flying Hospital」ほか、すでに多くの作品をリリース。アーティスト活動と平行して20年以上に渡り、TVコマーシャルやTV番組の楽曲制作・歌唱・ナレーションのほか、 映画・演劇の音楽制作、他アーティストのプロデュース、楽曲提供など、幅広い分野で活躍している。2021年春には、神奈川県海老名市に開業した小田急電鉄「ロマンスカーミュージアム」のジオラマショーのテーマソングを担当。その楽曲「セブンティ・ステイションズ」と、同日発売のライブ盤「Residents at Star Pine’s Cafe」を2021年7月14日にリリースした。

青木慶則 オフィシャルウェブサイト

 



 
乙川ともこ

おとがわともこ。シンガーソングライター。新潟県新潟市出身。亀田製菓本社のある旧亀田町で育つ。幼少期から音楽教室やピアノ教室に通い、高校時代からシンガーになりたいという気持ちが芽生え、大学では軽音サークルに参加しながらオリジナル楽曲を作り始める。その後上京し、2009年からOtto(オットー)名義で活動を開始。ライブハウス「下北沢 LOFT」を拠点にし、ピアノの弾き語りを中心にライブ活動を続ける。2019年、シンガーソングライターの青木慶則(ex.HARCO)と出会い、同氏のツアーにコーラスやゲストボーカルとして参加。2020年2月に名義を本名に変え、青木のプロデュースにより、ファーストアルバム「元気で過ごしてますか?」を同年にリリース。乙川本人による楽曲のほか、青木による書き下ろしや、ふたりの共作も含まれ、どの曲も名曲と呼ぶにふさわしい充実した内容となっている。親しみやすい人柄と耳に残りやすい楽曲で多くのファンに愛されており、今後の活躍も楽しみである。

乙川ともこ オフィシャルウェブサイト




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