2016年2月28日開催『みんなの戦艦2016 戦艦と艦長がダブルで生誕10周年祭』代表の奥村祥人氏にインタビュー
みんなの戦艦が約1年ぶりに、『みんなの戦艦2016 戦艦と艦長がダブルで生誕10周年祭』として2016年2月28日(日)に渋谷TSUTAYA O-nestで開催される。2016年で10周年を迎える『みんなの戦艦』の艦長こと奥村祥人さんにインタビューをすることができた。
text by Fuhito Kitahara
| 今回は「みんなの戦艦」という名義でやるつもりはなかった
本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。
奥村祥人(以下、奥村) みんなの戦艦という都市型フェスを企画している者です。バンドもやっていまして、henrytennisというインストプログレのバンドも10年くらいやっています。メンバーが抜けたりなどで1年ほどお休みしてたんですけど、今度のみんなの戦艦で全曲新曲で再スタートします。また、Monotoonsというめちゃくちゃポップな女の子ボーカルの電子ポップバンドもやっています。それとは別に、ソロ活動用にテクノ・ハウスのトラックメイカーとしてFinger Kamareruという名義も持っています。
今回のイベントタイトルは『みんなの戦艦2016 戦艦と艦長がダブルで生誕10周年祭』ですが、このタイトルをつけた理由を教えてください。
奥村 実は今回は「みんなの戦艦」という名義でやるつもりはなくて。僕は来年で40歳なんですが、誕生日が閏年の2月29日なので10歳の誕生日を迎えるということにもなるんですよ。生誕祭というのは自分はあまり好きじゃないんだけども、まあ閏年の10年って切りがいいなって思って。あと誕生日が4年に一回だと、より一層10歳の誕生日ってのは記念の瞬間になるだろうから、なんかやっといてもいいかなと思って生誕祭をやることにしたんですよ。そうしたら、いろんな経緯があってみんなの戦艦をやることになったという感じですね。
先日(2015/12/6)開催発表と出演者発表がありましが、ほぼ全出演アクトを一気に発表されましたね。
奥村 今決まっているアクトは全部発表しました。
これって、ふつうのフェスではありえないと思いました。
奥村 ありえないですよね。みんなの戦艦も、これまでは第2弾、第3弾発表ってやってたんですよ。だけど、前回のSuper Deluxeから間がちょっと空いちゃったんで、まずはインパクトだなと。それが1個の理由としてあって。
もう1個の理由として、もちろん第2弾、第3弾って分けるのも考えたんですけど、アクトの並びを全部一緒に見た時にはじめて魅力が出る集まり、流れだなと思って。これを分割しちゃったら、なんか勿体ないなと。すごい美味しいパフェをバラバラに分割して食べたみたいな。しかも時間かけて食べたみたいな。そういう勿体ないことになるなという気がして、それで一気に出しちゃいました。
開催発表と同時に公開されたフライヤー。
これだけの出演者を一気に発表した(クリックすると大きく表示されます)。
| この10年を振り返る
10年間の歴史を振り返っていきたいと思うんですが、まずはフェスをやってみようと思ったキッカケを教えてください。
奥村 始まった経緯はすごくシンプルで、他のバンドがフェスに呼ばれてるのに「自分たちって呼ばれないよね」っていう話しになって、どんなに客観的に見ても自分達が劣っているとは思えなかったから、俺たちでなんかやっちゃおうかっていう。酒場にいた人達で組んだ(笑)。呼んでくれないなら、呼ぶ価値があるところを見せてやろうという鼻息荒いところで。まあ、実際そこまで強く思ってたわけじゃないんですけど、若気の至りですよね。
主催メンバーは今と変わらずですか?
奥村 かなり違います。当初の主催メンバーは僕がいて、TACOBONDSのオガワナオキくん、KURUUCREWのムラタくん、あと、つぼっちというすごい人脈が広い女の子がいて、最初はその4人で立ち上げました。当時は続けていくという意識は無かったですね。
最初に始めたのは2006年ですよね。どんな感じだったんですか?
奥村 2006年の最初のみんなの戦艦は、下北沢のリンキーディンクスタジオの建物を丸ごとオールナイトで借り切って、6部屋あるスタジオを全て使い、全アクト総勢20組くらいが一斉に夜から朝まで演奏しようという頭のおかしいイベントだったんですね。それがものすごい好評で、集客的にもすごくよくて。
その次は2007年ですか?
奥村 最初は、どんなちっちゃいフェスでもいいから自分達が出たいっていうとこから始めたものが、実際フェスと名付けてやってみたところ、なかなか面白かったと。じゃあ、「もうちょっとやってみようか」っていう話しになったんですよね。それで翌年に、ちょうど当時CD屋さんのディスクユニオンで働いていた男の子が僕のバンドのマネージャーだったんですけど、彼のつながりでディスクユニオンと提携してShinjuku MARZ、Shinjuku Motionでみんなの戦艦をやらないかという話しになって。
だけど、そこでKURUUCREWのムラタくんがちょっと違うなっていって辞めるんですよ。たしか同じ頃、つぼっちもたぶん同じような理由で。ユニオンが決して悪くはないんですけど、独立独歩というカタチじゃないんだったら辞めちゃおうかなって、実質俺とオガワ君だけみたいな感じで2回目を開催したのを記憶してますね。
もちろん面白かったんですけど、なんというか、やっぱり自分達で全部やったんじゃないところがあって。例えばアクトの選定に関しても、ディスクユニオンと提携しているので「こちらの方を出したいと思うんですけど」っていうのがあって。ムラタくんとつぼっちはそれを感づいて辞めちゃったんだけど、俺たちふたりも「なんかすごい疲れちゃったけど、なんかあんまりだったね。しばらくやめとこうか」みたいな話しになってきたんですよ。
ちょうどその頃、henrytennisは海外でライブやったりとか、いろいろフェスに呼ばれたり、アルバムも出すっていう話しにもなってけっこう忙しくなってきて。TACOBONDSも売れだしてきて忙しくなってきたんですね。「バンドが忙しいからフェスできないね」っていうのを表の理由にして、一旦ストップしました。
その後、再開までだいぶ期間は空きますよね。
奥村 その間に全然イベントやってなかったかというと、そうでもなくて。別の角度から、別のメンバーと多角的なイベントをやるCLOSERという集団を作ったんですよ。CLOSERでイベントを開催したり、blunstoneの竹内さんと廃校フェスを立ち上げたり、その流れでぐるぐる回るに参加したりしていました。
オガワくんもオガワくんでライブ活動やリリース、自主イベントをガンガンやっていたみたいで、それぞれが忙しかったのかなという感じですね。
再開したキッカケを教えてください。
奥村 henrytennisが一度解散して暇になってた時に下北沢THREEというライブハウスで、ちょうど俺とオガワくんが出演してたのかな?何の名義で出演したのか、どっちかが客だったかのか忘れてしまったんですけど、酒飲みながら話していて、そうしたら以前マヒルノというバンドをやっていた赤倉くんが、今はLOOLOWNINGEN&THE FAR EAST IDIOTSをやってるんだけど、ちょうど近くにいて「みんなの戦艦をまたやったら面白そうですよね」みたいな話しになって。みんな酔っ払ってたからじゃあこの3人でやっちゃおうと。
場所は新宿の風林会館でしたよね?
奥村 前にやった時よりも大きい規模で、誰もやったことがないところでやりたかったので、いろいろ探しているなかで風林会館という新宿歌舞伎町のキャバレー跡地を見つけたんですよ。そこがとにかく良い所で、内装も格好良いし、キャパも600人くらい入って、とにかくお洒落だと。ただ、ネックはステージだけはあるんだけど機材がまったくないと。まあでもそれを押してでも余りあるくらい魅力があるということで、そこでやることに決定したんですね。ただ、規模がちょっと大きくなるから、主催の人数が3人だとちょっと足りないんじゃないのってことで、壊れかけのテープレコーダーズの小森くんとヤーチャイカの西原くんの2人とも組むことになって。
それがみんなの戦艦2012なんですけど、大盛況で終わって。アクトは今考えても凄いなと。正直全てが当たったというのがあの日のイベントで、僕ら主催陣は強烈に心を焼かれました。こんな面白いことならまたやろうと。もちろんそこにいたるまでにめちゃくちゃぶつかったりだとか、衝突したりとか、いろんなことがあったんですけど、結局終わってみてまたやろうという話しになって、2013年、2014年は六本木のSuper Deluxeでやりました。
小森くんと西原くんは風林会館が終わった後に籍を外すことになったんですけど、YDOデンジャラス弾き語りなどの名義で活動しているヤスエくんが2013年から手伝ってくれるようになりましたね。
リンキーディンクでのみんなの戦艦も復活しましたよね?
奥村 こっちは、よりアンダーグラウンドな目線で、ダイヤの原石のようなギラギラしてる人達を集めてやりましたね。2014年末は、リンキーディンクスタジオの上のERAというライブハウスも合体させて、建物全部使ってやることになって。ERAではDAYのイベントにして、スタジオではオールナイトで夕方から朝まで2つのイベントを一つのイベントに繋げて開催しました。
| この日は自分でも「お前がんばったよ」ってたぶん言えると思います。
今年(2015年)は開催されませんでしたが。
奥村 みんなの戦艦が上手くいってきて、実績が自分の自信になってきたからだと思うんですが、主催陣それぞれの見ている方向というかやりたいことの違いがハッキリしてきて、まあちょっとお休みしようかっていう話しになったんですね。一旦冷却期間を置こうよって。2015年の3月くらいかな、完全に停止したカタチになったんですよ。
そんな時、ちょうど自分の年齢を意識することがあって。それで、自分の生誕10周年イベントをやろうと思って。その際、今回のイベントを組む時の自分の哲学というか、誰を呼ぶかという哲学が自分の中にちゃんとあって、今まで音楽人生の中で影響を与えてくれた人と、一緒に闘ってたり、意識していたライバルを積極的に呼ぼうと思って。
それで、生誕祭のアクトがいくつか決まってきて、その名前をバッと見てみたら、みんなの戦艦のメンバーの名前が全員入っていて。当たり前なんですけどね。自分の音楽人生ってみんなの戦艦がすごく大きかったんです。「そうか、みんないるな」って思った時に、オガワくんに電話してみたんですよ。そしたらオガワくんが「それ、みんなの戦艦にしちゃいなよ」って。
みんながいたから、みんなの戦艦としてやることになったんですね。
奥村 そうそう。そこで気づかされたのは、出演者もそうだけど、みんなの戦艦をひとつのバンドとしてとらえたら、みんなの戦艦も共に闘ってたんじゃないかと。そうだよね、それはアクトに入れてあげなきゃだよなって思って。だから僕の中で今回のは、もちろんみんなの戦艦っていう名前でやってますけど、僕の生誕祭があった上での、みんなの戦艦もアクトたちの中に入っているというイメージですね。
僕はこの生誕祭というのを重く考えていて、もちろん10年だから、40だからやめるってわけじゃ全然ないんですけど、ここまでやってこれたっていう自分をいっかい誉めたいんですよ。そこで自分を誉めなきゃ先に進めないと思って。僕はなんでそんなことを言うかというと、僕は自分にすごく厳しい所があって、「俺はまだまだだと、ほんとに駄目だなと、バンドを運営する才覚もないし、無名であるし、技術もないし、努力もないと」と常に考えてしまうんだけど、そこで自分を誉めようって思ってしまうような生誕祭というイベントがあるのは、自分の中でやっぱりでかくって。「俺、自分を誉めるんだ、この日」って。これは凄いことだなって思っていて。他人に「よくやったよね」って言われても、僕は「なにいってるんだ、この程度でなにがよくやったんだ」ってたぶん言い返すと思うんですけど、この日は自分でも「お前がんばったよ」ってたぶん言えると思います。
だから、3つの名義で出るってことなんですね。
奥村 そうなんですよ。自分の今の姿を100%イベントに投影させたいんで、自分は全部でると。
でも実際、運営しながら3つも出るは大変なことだと思うんですけど・・・
奥村 大変だ(笑)。
| 僕という人間は、例えば同じジャンルの音楽を聴き続けるとか、同じ表現をし続けるとか、そういうことに人間味を感じないんですよ
そもそも、どうしてみんなの戦艦っていうタイトルなんですか?
奥村 完全に何の理由もないですね。
フェスとしては異質な名前ですよね?
奥村 最初リンキーディンクをやった時に、名前どうするっていう話しになったんですよ。やっぱりひねくれた心があって、あたりさわりのない横文字とか憶えやすい短い言葉とか、格好付けた名前とか、「ないでしょ」って話しになって。ほんとに馬鹿みたいな、意味がわからない、だけど気になってしまう名前にしようって。
たしかに意味はわからない名前なんですけど、結果的に10年間、いろんなところにクルーズしていって。なんか良い名前だなあと思います。だけど戦艦だから戦ってるのかな?って思ったり。
奥村 戦艦で旅をすることもできるじゃないですか。敵がいない場合、それに乗ってみんなで旅をする可能性もある。だから、戦うとは限らないです。
みんなの戦艦って今までいろんなところで開催されてますが、場所にこだわっているわけではないってことですか?
奥村 そうですね。場所のこだわりは全くないですね。同じ街でやり続けることとか、街中でのサーキットフェスに対するアンチテーゼを自分達は持っていて、単純にサーキットフェスというものがあまり好きじゃないんです。サーキットをやってる方にはほんとに申し訳なくて、その方自身を否定するつもりは全くないんですけど、サーキットフェスティバルそのものに対しては否定的ですね。リンキーディンクのスタジオ6部屋を使って一気にやるっていうのは、あれは実はサーキットフェスでいろんなライブハウスでやってるというものに対して、1個の場所でもサーキットできるんですよっていう一種のアンチテーゼなんです。
街に対するアンチテーゼというのは?
奥村 やっぱり同じ街でやり続けると同じ色がついちゃうだろうなと。あくまで個人的な見解で、主催のみんながどう思ってるかわからないですけど、僕自身は同じ街でやり続けて同じカラーがつくのは嫌だなと思っていて。僕という人間は、例えば同じジャンルの音楽を聴き続けるとか、同じ表現をし続けるとか、そういうことに人間味を感じないんですよ。いろんなことに興味をもって、様々なことに手をだしていくっていうのが人間だと思うんです。だから、それに忠実になって考えると、ひとつのものにずっといるのは怠惰だっていうか、そういうイメージで自分は思ってしまうんですよね。
| 自分の10周年で、自分のやってきたことの集大成にしたい
今回の開催地はO-nestですが、理由があったりするんですか?
奥村 僕がhenrytennisっていうバンドをはじめて、最初に認めてくれたライブハウスの人がnestの今の店長の岸本さんなんですよ。Gellersとか、UMIBACHIとかそういう人達と巡り合わせてもらって、それ以降定期的にnestに呼んでもらえるようになって。ちょうど28歳くらいで、第2の多感な時期を迎えていたんですよ。その時に、トクマルくんとかnhhmbaseとかgroup_inouとかKURUUCREWとかYOMOYAとか、強烈な才能があるバンドたちと一気に知り合って、その場所がnestだったと。
自分の10周年で、自分のやってきたことの集大成にしたいといった時に、開催地にいろんな案があったんですけど、「お前はほんとはどこでやりたいんだ」と自問自答して、nestで出会った多くの友達とかバンド、それこそ戦場を一緒に駆けていったような連中は忘れがたいものだったから、その時の思い出がたくさん詰まっているnestでやろうと。だから、僕にとってnestというのはすごく大事な場所ですね。
みんなの戦艦10周年だったからこそO-nestだと。
奥村 みんなの戦艦もですが、僕的には生誕祭の色合いが強くて。生誕祭だからnestなんですよ。
10年間、途中で休みがあったとしても、ひとつのフェスを続けてきたってことはすごいと思っています。続けられたコツみたいなことってあるんですか?
奥村 ハッキリ言えるのは、仲間ですね。間違いなく。一緒にやった仲間がいなければここまでやれてないです。これはまあ、全然美談じゃなくて、すごく当たり前の理由で。たとえば俺が気づかないこととかをもう1人の主催が気づいてくれることで、最初は不慣れだったフェス運営をやり遂げることができたので、僕的には仲間がいなければここまでやれてこなかったですね。
で、ここから先の10年って話しになった時に、またオガワくんとか、赤倉くんとか、ヤスエくんとかと喧々諤々、喧嘩しながらやれたら最高なんですけど、もしそうならなくてもひとりでもやると思います。ここから先10年間やるコツは、単純に意地ですね。
最後の質問ですが、これから奥村さんの活動も含めての今後の展望は?
奥村 生誕祭で、1回ゼロにするつもりなんですよ。もちろん、これまでにやってきたことをやめるんじゃなくて、自分の中でグニャグニャしていたしがらみというか、そういったものを1回ゼロにして、すっきりした目線で自分がなにをやっていきたいのか見つめ直す。で、自分が今まで得てきた経験を持って先に進みたいなと。今回の戦艦・生誕祭が最後の鍵になって、それで鍵を閉めてやっと次が見えるのかなと。
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おわりに
今回のインタビューは、記事内でもあったとおり3つの音楽活動全てで出演する、それもhenrytennisは全曲新曲で挑む(!)という奥村さんの覚悟が滲みでた内容になったと思います。このインタビューの後にもフライヤー配りやアクトへのインタビューが控えていて、「めちゃくちゃ大変ですね!」という僕の何の工夫もない感想に、「手帳が真黒だよ」と恥ずかしそうに笑っていたのが印象深かったです。
みんなの戦艦2016 戦艦と艦長がダブルで生誕10周年祭
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